かつて黄布帆船が行き交ったキョンガン(京江)商人の舞台
<キョンガン(京江)、クァンナルからヤンファジン(楊花津)まで>
- 朝鮮時代後期の商業都市であるハニャン(漢陽)の変化を主導したキョンガン(京江)商人の舞台である「キョンガン(京江)」を紹介
- 長さ9m、実物大で制作された黄布帆船とキョンガン(京江)商業関連の遺物約150点を展示
- キョンガン(京江)の人々の生業の場であり、魚、米、氷など生活必需品の流通地であるキョンガン(京江)の姿を入り江と渡し場に分けて展示し、トゥクソム・ソビンゴ(西氷庫)・クァンフンチャン(広興倉)などの250年前の物語について紹介
□ ハニャン(漢陽)を通って流れる川
- キョンガン(京江)とは、現在のハンガン(漢江)のうち、朝鮮時代にハニャン(漢陽)を横切るクァンナルからヤンファジン(楊花津)までの部分を指して呼んだ名前である。キョンガン(京江)は都城内の市場に米穀、木材、魚、塩を供給する卸売市場であり、全国の市場と関係を持ち、全国の商品の価格を調節する中央市場の役割を果たした。キョンガン(京江)は全国のあらゆる物が集荷される全国的な水上輸送の中心地だった。
□ キョンガン(京江)商人の舞台
- キョンガン(京江)地域はハニャン(漢陽)都城の中に集まる租税穀物と物資、そして多くの人々が行き来する場所だった。朝鮮後期における大同法の施行により、租税穀物の運搬が増え、賦役労働を物で代替して納税することが可能になったことから、賃金労働として賦役を代わりに行うために多くの地方住民たちがやってきた。ハニャン(漢陽)の人口が増え、彼らがキョンガン(京江)の川辺に定着したことで、キョンガン(京江)は商業の中心地として成長してゆくようになった。
- 商業と交通の中心地であったキョンガン(京江)には、商業や船運業、造船業、蔵氷業、氷魚船などを通じて富を築いたキョンガン(京江)商人が居住していた。その他にも、詐欺やインチキなどの悪事を働くならず者、船で運ばれた貨物を倉庫まで運ぶことで生活していた荷物運び屋、船員たちを相手に酒や遊興を提供する酒場や遊興店、船員たちの安全を祈祷する巫女など、多様な階層の人たちが暮らした。
□ 生業と生活の空間:入り江と渡し場
- 展示の構成は、クァンナルからヤンファジン(楊花津)まで、上流から下流に下りながら観覧できるようになっており、入り江と渡し場に分けてキョンガン(京江)の人々の物語を紹介する。
▶展示室の中央に、天井まで帆を広げた長さ9mの黄布帆船が展示される。2代にわたってハンガン(漢江)の川辺で舟を作る仕事をしているキョンギド(京畿道)無形文化財第11号のキム・グィソン造船長が製作した。実際に乗ることができるようになっているので、観覧がより楽しくなるはずだ。
- 朝鮮後期のクァンジン(広津)、トゥクソム、ソビンゴ(西氷庫)、ハンガンジン(漢江鎮)、ヨンサン(龍山)、ソガン(西江)、マポ(麻浦)などは、現在と地名は同じだがその姿はだいぶ異なっていた。これらの地域では入り江と渡し場に分かれてそれぞれに特化した業種が栄え、それぞれの営業権を維持するための紛争が続いた。
▶クァンナル(クァンジン(広津))は、ハンガン(漢江)の上流からハニャン(漢陽)へ入る最初の入り口だった。また、トゥクソムはチョンソン(旌善)の木材がいかだ状に縛られて降りてきたため、木材が山のように積まれていた所だった。
▶ハンガン(漢江)で氷を掘り出し、東氷庫・西氷庫まで運ぶ蔵氷業が盛んに行われ、次第に氷の需要が増えて私氷庫ができると、マンウォン(望遠)・ハプチョン(合井)地域では民間蔵氷業も現れた。これにより氷魚船も発達し、魚が生魚の形で流通し始めた。
▶ヨンサン(龍山)とソガン(西江)には、漕運船が押し寄せたため、漕運船の租税穀物を倉庫まで移動させる運搬請負業や馬貸し業などを行うキョンガン(京江)の人々も増えた。このような荷役運搬業の1日の賃金は2銭程度で、マポ(麻浦)で食事を済ませる賃金労働者たちだった。
▶マポ(麻浦)は客主が初めて現れた場所で、魚、米、塩などが流通される物流と商業の最大の中心地だった。
- 王や士大夫中心の談論から脱し、朝鮮後期のダイナミックな変化を導いた様々な階層の物語を古文書と絵を通して紹介する。また、動画を通じて面白く構成することで内容を理解しやすくした。
▶蔵氷謄録、正祖丙午所懐謄録、金陵集、存斎集、右捕盗庁謄録などの古文献や、商人の文書や証票だった任置票、出次票、船都録、手票、マポ(麻浦)のアミの塩辛の甕など、これまではあまり紹介されてこなかった遺物も数多く紹介される.