ハンガン(漢江)の橋写真展:渡し場から橋へ
- クァンナルからヤンファジン(楊花津)まで、渡し場と浦口に近接した場所に建設されたハンガン(漢江)の橋の歴史を振り返る展示
- ハンガン(漢江)の橋が経験した受難の歴史、ハンガン(漢江)の橋の建設及び名前の変更などについて写真とともに展示
□ 歴史的にも、ハンガン(漢江)は韓半島の中部地方を東から西に流れる母なる川として、早くからその価値を認められてきた。中でも、クァンナルからヤンファジン(楊花津)までの、朝鮮時代のハニャン(漢陽)に隣接して流れていたキョンガン(京江)にはクァンナル、トゥモポ(豆毛浦)、ハンガンジン(漢江津)など11の渡し場と浦口があった。
○ この渡し場と浦口はハニャン(漢陽)と全国各地をつなぐ主要道路が通る交通の要所であり、商業の中心地であった。キョンギド(京畿道)クァンジュ(広州)へはトンデムン(東大門)から始まってワンシムニ(往十里)を通り、サルゴジダリ(橋)やクァンジン(広津)を経て行くことができ、ヨンイン(龍仁)へはクァンヒムン(光熙門)からハンガンジン(漢江津)を経て行くことができる。クァチョン(果川)に通じる道はナムデムン(南大門)からトンジャクジン(銅雀津)を渡る必要があるなど、ハニャン(漢陽)の南にある地方に向かう大路はすべてハンガン(漢江)を渡る必要があった。
□ 近代になると陸路交通手段が発達したため、それまで船でハンガン(漢江)の南北を繋いでいた渡し場と浦口があった場所に橋が建てられた。1900年のハンガン(漢江)鉄橋、1917年のハンガン(漢江)人道橋の建設などを筆頭に、多くの橋が立ち並ぶようになった。ハンガン(漢江)の橋の建設は道路を連結したというだけにとどまらず、かつてはヨンドン(永東)と呼ばれていたカンナム(江南)やヨイド(汝矣島)、チャムシル(蚕室)の開発など、ソウルの発展をリードする力となってきた。
□ 今回の『ハンガン(漢江)の橋写真展:渡し場から橋へ』では、橋に秘められたストーリーを完工された時期順に写真とともに振り返ることができる。